灰姑娘













竈ノ灰ノ上ニ眠ル嬰児ノ事

その子を見つけたのは、一体、誰だったのでしょうか。




炊事係の袁小母さん?

粉屋の劉爺さん?




ともかく、竈の灰の上に眠る赤ん坊を見つけたその人は、大騒ぎをして、そして小さな村の事、ほとんど村中の人間がそこに集まりました。




集まった村人たちは、めいめい勝手に言いあいます。



とりあえずみんなが口を揃えて言ったのは、

「昨日の晩には、こんな子はいなかった」

ということ。


だとしたら、夜中に誰かが忍び込んでこの子を置いていったはずですが、こんな小さな村なのに、誰もそんな余所者を見た人はいません。



意地悪な孫小母さんが、近所の浮気な娘が母親だろうと悪態をつけば、娘の父親が顔を真っ赤にして、小母さんの胸倉を掴む始末。




みんなでそんな風に大騒ぎしますが、結局、その子がどこから来たかは分かりません。





「焼き殺す気だったんじゃないのかね。」

銭の小父さんが言います。



「誰かが赤ん坊の始末に困って、まだ熱い竈の中に放り込んでいったのが、たまたま死ななかったんだろう。」




銭の小父さんの言葉を聞いて、それまで何も言わずに話を聞いていた圭師父が口を開きました。





「子どもが寒がるといけないと思って、まだ温かい灰の上に置いていったのですよ。親の慈悲故です。」

圭師父の言葉は、穏やかでしたが、反論を許さない強さがありました。

銭小父さんも、周りの人もみんな黙ります。




つかつか

圭師父は灰の上に眠る赤ん坊を抱き上げました。

ええ、係わり合いになることを恐れて、誰もその子を拾い上げることすらしていなかったのです。






「おや、女の子でしたか。それにこれは…」

赤ん坊の胸には、守り袋にしては大きすぎる袋がかけてありました。

師父はそれを覗くと、


そっ

と微笑み、そして女の赤ん坊に話しかけました。






「姑娘…」

師父は、素性も得体も知れないその子に、「おじょうさん」と呼びかけました。








「初めまして、灰姑娘。私は圭中天と言います。良ければうちへおいでなさい。」










だから、その赤ん坊を、みんな、「灰のおじょうさん」と呼ぶのです。





2007/12/8











灰姑娘、靴ヲ王公子ニ奪ワルル事

「温慈!!」

圭夫人の声が飛びます。



「はい、ただ今。」

若い娘が、返答します。




「なんだい、この竈の汚れっぷりは!!本当に掃除をしたの!?」

娘は黙ったまま、圭夫人を見上げます。


なんと返答したとしても、夫人の機嫌は直らないと知っていたからです。




「ええい、なんだねその仏頂面はっ!!可愛げのない!!」

そう言われても、娘は黙ったままです。



「なんだね」

と言われても、彼女は愛想豊かとは正反対の質でしたから。




でも、それが圭夫人の怒りに油を注いだのは確かでした。



ばっ!!

圭夫人は竈の灰を蹴り付け、娘を灰まみれにしました。




「まったく、いいザマだよ、さすが『灰姑娘』だけのことはあるわね!!」

それで少しは気が晴れたのでしょう。



「片付けておきなさいよ。」

圭夫人はそう言い捨てて、今から来る来客の歓迎の準備に向かいました。









娘は…灰姑娘は、黙って辺りを片付け始めました。


涙ながらに?

いいえ、表情は一つも変わってはいません。

彼女は昔から、意固地なほどに表情に乏しい人間なのです。

そしてそれが彼女を、色んな人々から遠ざけてしまいます。



彼女が悪人というわけでは、ないのですが。









内弟子たちが、彼女に声もかけずに通り過ぎていきます。

圭夫人の機嫌を損ねるのが怖さに、彼女に優しい声をかける人は一人もいません。



でも灰姑娘は、手を休めることすらなく、竈を綺麗に片付けます。















灰姑娘は、その姓名を「圭温慈」と言います。

ええ、彼女を拾ってくれた圭師父が、そう名付けてくれたのです。




「あなたを温かい竈の灰の上に置いていった、親の慈悲を忘れないように。」

師父はそう、何度も何度も言い聞かせてくれました。




それが本当に、“親の慈悲の温かさ”であったかは、今更、灰姑娘には知りようも無い事ですが。








圭師父は、「圭」という彼の姓まで彼女に与えてくれましたが、その奥様である圭夫人は、彼女のことを決して愛してはくれませんでした。




圭夫人は、圭師父の師匠の娘にあたるそうです。



圭師父の師匠はとても有名な武侠で、そして圭師父も将来を嘱望された才能豊かな武侠であったそうです。

圭師父を見込んで、その師匠は娘を圭師父に嫁がせたそうですが、圭師父は一体なにがあったのか、全ての地位も名声も捨てて、辺鄙で小さなこの村に隠棲してしまいました。




圭夫人は、まずそれが面白くなかったようです。




小さな村で、ほそぼそと弟子を取って、それで生計を立てている圭師父に、圭夫人はいつも心無い言葉を浴びせていました。

そして、二人の間にお子様がないことが、更に、養女のような立場の灰姑娘への苛立ちをつのらせていたのでした。









圭夫人の灰姑娘への待遇が、はっきり“虐待”に近づいたのは、近所の小母さんたちの根も葉もない噂からでした。




「奥さま、師父があの子を育てているのは、あれはあの子を妾にするためじゃないかね。ほら、あの子の顔を良く見て御覧なさいよ。愛想はないけど、綺麗な顔をしているじゃないかね。」




根も葉もない噂というものは、根も葉もないくせによく茂ります。

そして、それを完全に枯らす術はないのです。

ええ、自然に枯れるのを待つしかありません。



口を挟めば、水を注いで成長させるだけだと知る圭師父は、何も言いません。

そして灰姑娘も、何も言いません。




それは、圭夫人をますます苛立たせてもいるのですが。










「王公子のお着きです。」

その声に、圭師父の家の騒ぎが、大きくなりました。













「師叔母上、お初にお目にかかります。王瑾亮でございます。」

そう挨拶したのは、その名の通り、輝く美玉のような青年でした。




「まあまあ、王公子、このようなあばら家にようこそ…」

輝くように鮮やかなその美貌に、圭夫人も思わず圧倒されています。


「この度は、高名の圭師叔父にお会いすることが叶い、恐縮でございます。」

そうして王公子は、側で穏やかに座する、圭師父を見上げました。




「師兄はお元気でいらっしゃいますか、王公子。」

「はい、お元気でいらっしゃいます。そして…また、師叔父と技を競わせてみたいものだと、仰っていました。」

「師兄には敵いませんよ。」

圭師父はやんわりと断ります。









そんな光景を、灰姑娘は土間の片隅から眺めていました。


許しがなければ上には上がれませんが、圭夫人は決して許しなどしないでしょう。

それに、灰姑娘は上がりたいという素振りも見せません。




下からでも、充分、見えますから。










王公子は、圭師父の兄弟子の愛弟子だそうです。

ですから公子は、圭師父のことは師「叔父」と呼びます。師弟関係で言えば、叔父にあたるからです。

それに、圭夫人の父親は、王公子の師匠にも勿論、師匠にあたりますから、それらの義理もかねて挨拶に来たのでしょう。








「では、師叔父。不肖のこの王瑾亮とならば、一手なりとも技をご教授いただけましょうや?」

おや、風向きがおかしくなりました。

どうやらこの王公子、優美な外見には似合わず、なかなか好戦的な性質のようです。



圭師父はどこまでも断ろうとしましたが、圭夫人がやいのやいのと口を挟み出し、ついに圭師父は断りきれなくなりました。




「私は年寄りでね、あまり長くは失礼したいのです。」

四十路を僅かに出たばかりだというのに、圭師父はそう言うと、手にした空の杯に小さな枝を入れ、火をつけました。




「この火が消えるまで…で、宜しいですか、王公子。」

「ええ、充分です。」




なにが“充分”なのか?

不遜な意図が見え隠れする言葉でしたが、一座の者たちは、王公子のあまりに絢爛たる雰囲気に惑わされて、気付いていないようです。




二人は、庭に降り立ちました。




「では師叔父、お手合わせを。」

王公子は優美に一礼すると、即座に構えをとりました。

対して師父も、“篝火”の構え…師父たちの流派の、一番基本の構えです…をとりました。





若いだけあって、王公子の攻手は果敢でした。

そして、その使う拳は“蜻蛉”

非常に熟達した者しか操れないという、変幻自在の拳です。



この若さでこれだけの拳を使いこなすということは、「古今稀なる天才」との噂も、真実なのかもしれません。





一座の者の目には、圭師父がその拳を、防ぐので手一杯に見えました。







「お時間です。」

小枝が燃え尽きると同時に、弟子の一人が叫びました。








「ご教授、有難うございました。」

上に戻ると、王公子の圭師父への礼もそこそこに、圭夫人の大賛辞が待っていました。




「まあ、本当に素晴らしい腕ですわ。」

「滅相も無い、圭師父は本当に素晴らしい腕をしていらっしゃいます。」

「まあ、何を仰います。宅の主人は、防ぐので手一杯だったではありませんか。」



さすがにその言葉に表立って頷く者はいませんでしたが、一座の者は皆、そう見ていました。




皆?

いえ、例外はあります。

実際に相対した王公子と、そして




灰姑娘です。







灰姑娘は、土間の片隅ながら、怜悧な瞳で冷静にその僅かな勝負を見守っていました。

そして彼女は気付いていました。




王公子は、上級の“蜻蛉”を繰り出したのに、圭師父は基礎の“篝火”だけで、その全てを防ぎきったことに。

もちろん、圭師父ともあろう人が、基礎の拳しか使えないわけはありません。




王公子も、もちろん、その事に気付いたのでしょう。

勝負終わりの声の時、僅かながら、でもはっきりと、燃え上がるような好戦的な瞳をしましたから。






高名の武侠の娘であり、もちろん当人も武術を会得しているはずの圭夫人は、夫を軽く見ているからか、それには全く気付いていないようでした。

己が妻が、ひたすら王公子をちやほやするのを、圭師父は、いつものように穏やかな面差しで、眺めていました。








「時に師叔父、師叔父がこれほどの腕でいらっしゃるということは、そのお弟子もさぞや腕の立つ方ばかりなのでしょうね。」

王公子の言葉に、圭夫人は待ってましたと、弟子達を紹介します。



ですが

王公子は、礼儀正しい、だが気の無い視線をそれに向けただけで、すぐにそこからは視線を


つい

と逸らしました。




「ええ、まことに先が楽しみなお弟子方ばかりです、こちらの方々といい…そちらの姑娘といい。」




灰姑娘は、いきなり、王公子の視線がこちらに向いたので、彼女にしては珍しく、驚きました。


尤も、それはほとんど外見には出ませんでしたが。




「姑娘?」

圭夫人は不愉快そうに言います。



「姑娘なんて上等なものですが、あんな子はウチの下…」

下女と言いかけて、さすがに夫の目の前でそこまで罵倒するのは気がひけたのでしょうか、代わりの言葉を探し当てかねて、沈黙しました。




「あの子は私どもの弟子ですが、なにせ小さいころからおりますもので、娘のような存在です。」

「娘…」

そう言われた灰姑娘の外見は、先ほどの灰かぶりで煤けたようになっていました。



「ええ、ええ、働き者の娘でしてね。今も、王公子がいらっしゃるので歓迎の準備に働いてくれて、ほら、あのように灰塗れに…」




くすり

王公子は、冷たい華のように笑いました。




「さしずめ、“灰姑娘”といったところですかな…」

その妖しいまでの微笑を受けて、灰姑娘はただ、冷静にこう思いました。







ああ、私、この人の事は、決して好きにはなれまい。
















王公子はその後、何日か滞在しましたが、灰姑娘はもう彼とほとんど顔を会わせる事はありませんでした。

相変わらず、灰姑娘は灰塗れになって竈掃除をしていましたから。




王公子が数日後の夕方、ようやく帰ってくれた時には、灰姑娘はむしろ、清々しました。







その日の深夜。

片付けをすべて終えた灰姑娘は、部屋…というよりも屋根裏の片隅に戻り、彼女の数少ない私物を入れた袋の中から、そっと靴を一足、取り出しました。

長い年月に色あせたとはいえ、それでも在りし日の美しさをまだまだ残した、刺繍入りの靴です。

そしてこれは、彼女の唯一の、彼女をあの日、灰の上に“置いて”行った、恐らくは親の、形見でもありました。




灰姑娘は片足にその靴を履き、もう片足には、いつもの薄汚れた靴を履きます。

そして彼女は、木剣を手に取ると、そっと、しかし軽やかに、家の塀を飛び越えました。











闇の中、彼女は木剣を振るいます。

誰が相手をするでもありません。

あえて言えば、“闇”が相手でしょうか。

こうして“闇”を相手に、彼女が剣を振るうようになって、もう何年にもなります。

片足には、彼女の親の形見の片足だけの靴を履いて。



どうしてわざわざ、それを履いているのか、灰姑娘にも良く分かりません。

それを履いて、親を偲んでいるのか、いや、おそらく否でしょう。

それは「履きたいから」としか言いようのない衝動からですし、そして彼女がその靴を身につけられるのは、誰の目にも触れない、こんな夜中だけです。









闇の色が変わりました。




「素晴らしい“胡蝶”の舞いだ。やはりそれは圭師父直伝かな、“灰姑娘”」

灰姑娘は、黙って声の方向を向きました。




灯る松明に照らされたのは、灯明の元で見るのとはまた違った輝きを持つ、王公子の顔でした。




灰姑娘は、無愛想に一瞥するだけで、声も出しません。

王公子は、独りで話しはじめました。



「圭夫人は貴女を紹介しては下さらなかったがね、僕は貴女こそ、圭師父の実力一番の弟子だと見抜いていたのだよ。なにせ…」

王公子の柔らかな眼差しが、一変しました。


「圭師父との立会いを、ただ一人、冷静に見抜いていたのが、貴女だったからね。」




灰姑娘は、やはり口を開きません。

そもそも、たかがそんな事を問いただす為だけに、わざわざこんな場所で出迎るというのが、不審すぎる行動だったからです。




「“灰姑娘”回りくどい言い方はよそう…僕と一緒に来ないかね?」

灰姑娘は、それでも口を開きません。


「圭夫人のような、意地の悪い愚かな婦人にいびられて一生を終る気かな“灰姑娘”、私は貴女のような腕の立つ女侠が好きでね、是非、僕と一緒にいてもらいたいのだよ。」




そうして、嫣然と微笑む王公子に、灰姑娘はようやく口を開きました。









「否。」




王公子は、信じられない、といった面持ちになりました。

そしてすぐさま、侮辱を受けたかのように、顔を紅潮させました。









「貴女はもっと利口な娘かと思っていたがな。」

燃える松明が、地面に落とされました。




それが、拳の構えのためだと知り、灰姑娘はすぐさま、木剣を構えました。












地面に落ちた松明の光こそあれ、他は闇。

構えた木剣の先すら、ともすれば闇に呑み込まれそうになります。



けれど、灰姑娘にとっては、慣れた光景です。




先ほどの“蜻蛉”の構えで放たれる拳を、灰姑娘は


さらり

と避けます。


見えている訳ではありません。

でも、闇の色で分かるのです。




灰姑娘は、木剣を、その名の通り蝶のように舞わせながら、突き込みます。

当たった訳ではありませんが、衣には触れた感触がありました。




しばし拳と剣を合わせ、


相手が闇に慣れていないのなら、勝機はある

と灰姑娘が思ったその時でした。





拳が、変わりました。




ばっ


舞い踊る“蛍”のような、拳です。

緩やかではあるものの、縦横無尽かつ、動きの読めない拳に、灰姑娘は剣で対応するのが精一杯になっていきました。









延ばされた拳に、手の動きだけでは足りず、足捌きで撥ね退けようとした灰姑娘は、左足ごと拳で掴まれそうになり、自分でも驚くほどの焦った捌きで、その足を引き込みました。





ええ

左足には、あの刺繍の靴を履いていたのです。








「…その靴は、余程、大事なものらしいな、“灰姑娘”」

小さくなった炎に照らされた、王公子の笑顔が、歪みました。










ざっ

不自然な動きで体勢を崩した灰姑娘の隙を、王公子は見逃しませんでした。


一瞬で間合いを詰めるや、不安定な足元を更に揺るがすべく、蹴りを放ったのです。








「あっ…」

彼女にしては珍しく、小さな悲鳴すら漏れました。




彼女の足から、形見の靴の感触が消えました。














「成程、貴女に似合いの可愛らしい靴だ。」

体勢を崩したまま、地べたにある灰姑娘を見下ろし、悠々と松明を拾い上げた王公子は、そうして靴を見せつけました。




「返せ。」

短い言葉で睨みつける灰姑娘。



「も少し可愛らしい強請り方は出来んものかね、灰姑娘。…まあいい、ようやく貴女の言葉を三語は聞けた。それに、下手に媚びる女より、貴女のように無愛想で強情な女の方が、むしろ新鮮というものだ。」

王公子は、そうして続けました。




「このまま貴女を攫って行こうかと思ったが…考えが変わった。貴女から追いかけて来るが良い…この靴を返して欲しければな。」




間合いを詰める前に、王公子は目の覚めるような軽功で走り去っていました。


ええ、もちろん灰姑娘とて追いかけようとはしたのです。

でも、先ほどまともに蹴りを食らった足が、言う事を聞きませんでした。









ただ闇の中、灰姑娘は闇を睨んで、立ち尽くすばかりだったのです。





2007/12/8











灰姑娘、自ラヲ貫キテ放逐サルル事

「まあこの娘は、気でもふれたのかい!?」

感情的な圭夫人の言葉が、灰姑娘に叩きつけられました。


けれど、ほとんど血を流さんばかりのその強い言葉にも、灰姑娘は小揺るぎもしません。

圭夫人はそれも腹立たしかったのでしょう、言葉だけではなくて、その手まで振り上げました。

彼女とて武芸を修めた身です、それを受けては灰姑娘は事実、血を流す羽目になったことでしょう。




「…温慈、自分が何を言っているのか、知っての言葉だね?」

圭師父は、彼らしくそっと、夫人と姑娘との間に割って入り、穏やかにそう問いました。


「ええ本当ですよ!!正気の沙汰とも思えない…」

「勿論。」

灰姑娘の言葉は、短すぎて簡潔過ぎて、でも、撤回する気など毛頭もない決意を感じさせました。






「温慈、君の親御さんの形見の靴を王公子が奪い、取り戻しに来るように挑発したと。」

「是。」




「この娘は本当に愚かしいことっ!!コソ泥でもあるまいし、どうして貴公子がお前のあの汚らしい、古ぼけた靴なんぞ盗まなければならないのっ!?嘘をつくなら、も少しマシなウソをおつきなさいっ!!」

激昂する圭夫人。




他の弟子たちは、圭夫人の怒りのとばっちりをうける恐怖半分、事態の推移を面白半分でやや遠巻きに見守っています。




「事実です。」

灰姑娘の答えは、あくまで冷静でした。




彼女には、「周りの様子に合わせる」「そして演技をしてみる」というつもりと能力が、ほとんど絶望的に欠けているようです。

ですから、彼女の返答は、圭夫人をほとんど怒りで卒倒せんばかりに激昂させただけでした。




「なんで王公子がそんな事をしなければならないのっ!?」

「知りません。」

圭夫人の絶叫に、灰姑娘は無表情極まる返答を返しました。




事実、灰姑娘には王公子の意図などさっぱり分かりません。

そして、分かろうとする気もありません。





「ですが、私は靴を取り戻します。」




「取り戻したい」ではなく「取り戻します」

説得の余地のない、断言でした。




「ええ、ええ、どこへなりともお行きになるといいわ、このお嬢さんはっ!!ただし、もう二度とお前の面など見たくないっ!!良人っ!!もうこんな娘など、破門しておしまいっ!!」

圭夫人は、怒り狂ってもなんの反応もない灰姑娘に業を煮やし、圭師父に怒鳴るように命令しました。




「温慈、君がその言葉を取り消さないのなら、君はもうこれ以上ここにいることは出来ないよ。」

圭師父の言葉は、穏やかでしたが、勿論それは最後通達に近いものでした。






「私は靴を取り戻します。」


一呼吸。




「荷物をまとめなさい。」

即座に、灰姑娘は黙って頷きました。




ほとんど存在しない荷物をまとめ、ほとんどすぐに家をでる彼女を、誰も見送ろうとはしませんでした。
















深夜。

灰姑娘は闇の中、いつも彼女が剣を振るう場に立っていました。




闇の中、気配が動きました。





ちら

闇を切裂くように投げ付けられたそれを、灰姑娘はとっさに手にしました。




剣?




そして再び

闇を切裂くように向けられたのは、抜き身の刃でした。





灰姑娘は驚きもせずに、投げつけられた剣の鞘を払うと、




変幻自在の“蜻蛉”が、ゆるるかに飛ぶように、だが、その鋭い羽を踊らせました。






しばしの剣戟。

拳が、変わりました。




ばっ


舞い踊る“蛍”のような、拳です。

緩やかではあるものの、縦横無尽かつ、動きの読めない拳。





しかし彼女は、今度は冷静に、その拳に相対峙します。




動きの読めない拳とはいえ、




「対峙するのが二度目なら…反応できる、か。」

灰姑娘の心の内を読んだような言葉と共に、拳は止められました。




「今のが“蜻蛉”で“蛍”だ。」

灰姑娘は頷きました。


「君なら、二度も見ればあとは自分で会得できるだろう。」

「是、圭老師。」



その言葉に、圭老師は松明を灯して、ようやくその顔を見せました。




「いまの言葉に謙遜の言葉を返せるのなら…君は常人の中ででも生きていけるだろうにね。」

そして、少し哀しそうな表情になり、続けました。




「温慈、自分は追い出されたと思うかね?」

「否。」

灰姑娘は即座に否定しましたし、彼女の言葉に偽りのないことは圭老師も知っていました。

知っていましたが、老師の言葉の続きはこうでした。




「いや、事実、私は君を追い出したのだ…娘同様などと言っておきながらね。」

そして、独り言のように続けます。


「君が嘘を言ったとは思わない。君はそんなことをする娘ではないし、王公子は一癖も二癖もある、腹の底が知れない青年のようだ、初見のあの“蛍”の技で君を幻惑したに違いないと思ったのだが、その通りだったようだ。だが…私は

『そうだ』

とは言えない…私は情けない男なのだよ。」

「…」

さすがに何も返さない灰姑娘に、圭老師は続けました。




「なんの詫びにも、なんの慰めにもならない私の言葉を聞くために、待っていてくれてありがとう、温慈。だから私は、君に三つの餞別を用意した。受け取ってくれるかい?」

「是。」



圭老師は、状況が状況でもやはり、愛想もそっけもない彼女の顔を愛おし気に眺め、そして言いました。




「一つ目は、その“蛍”の型だ。あとは自分で習得しなさい。そして二つ目は、その剣だ。」




灰姑娘はその言葉で、改めて気づいたように剣に目をやりました。

圭老師は、彼女に明かりを差し出します。




青い刃。

握の部分は、女性に渡すにはためらわれるほど地味な造りなのですが、剣刃だけは、絶世の佳人が身につける花のように、匂いやかな艶を立たせていました。



先ほど、何の先入観もなしで振るった時の感触も含め、相当な業物であることは間違いなさそうです。




「名を露草と言う。」

刃の圧倒的な色香と存在感とは裏腹に、たおやかで儚げな名です。




「その剣は、君でなくては持てまい。」

払った剣の、味もそっけもない鞘を拾い上げて渡しながら、圭老師は言いました。




「君は、私が今まで見た中でも、最高の器を持った武侠だ。その底は、私などには到底、窺い知れない…」




そして、また、灰姑娘の顔を愛おしげに眺めました。





「我が娘よ…」

その呼びかけに、灰姑娘は圭老師の顔を見上げました。


「我が娘よ、私は君を手放したくはない…」

「我が父上。」

灰姑娘は、石のように閉ざした口をようやく開きました。




彼女が養父である圭老師を

「父」

と呼んだのは、初めてのことでした。



思わず口元が綻びかける圭老師に、灰姑娘は恭しく跪きました。





「旅に出る前に、お返しします。」


何を

という問いも待たず、彼女は続けました。



「圭という貴方の姓と、温慈という、貴方がつけて下さった名を。」




その彼女の言葉が意味することは、自明でした。




「眞州。」

圭老師は、ただそう短く、王公子の本籍地を口にしました。









「我が…いや、もう言うまい。君は結局、誰にも、何物にもとらわれない、“灰姑娘”でいるのだね。」

「是。」


きっぱりとした口調に、圭老師は微笑んで、その松明で彼女の行く道を照らしました。









三つ目の餞別だと、路銀と松明を渡した圭老師は、去っていく彼女の後ろ姿に、小さく呼びかけました。








「さようなら。」

そして、もう一言だけ、呼びかけました。





「さようなら、灰の上の、名も無きお嬢さん。」










小さな松明の明かりはすぐに小さくなっていきました。











そしてそれは、圭老師には、彼女が闇に溶けていくように見えたのでした。





2008/2/15











寒村ニ降リカカル凶事ノ事

「お前さまが用心棒…?」

ぶしつけな問いに、灰姑娘は気を悪くしたそぶりも見せず、ただ、


「応。」

と答えました。



なおもじろじろと灰姑娘を眺めた村長は、しばらくしてようやく名前を問いました。



「無名。」

素っ気ない返答に、村長は気分を害したような顔になります。




「趙大。」

呼ばれた男は、灰姑娘と村長の顔を交互に見やって、弁解するように語ります。



「へえ、村長さま。間違いなく、この娘さんは腕っこきの侠客なんです。ここらで“灰姑娘”と言えば、知らん人はおらん…」

「へえ、灰の“おじょうさん”ね。そりゃ強そうな二つ名だねえ、趙さんよ。」


言われた男は、誰に向けての言葉なのか


「いやあ、“無名”とは、またお前さまみたいな若い娘っコには珍しい名だねえ。灰無名かい、は、は、は。」

空笑いすると、再び村長に向かいました。




「いや、ですねえ、村長さま。でも、あれだけの金額でそんな腕っこきは雇えない…」

「もういいよ、趙さん。で、お嬢さん?」

村長は灰姑娘に言いました。


「言っとくが、報酬はそこの趙さんが言ったとおり、それ以上は払えないし、もしあんたが役立たずならビタ一文だって払いはしないよ、構わないね?」

やはり怒る様子も見せず、頷く灰姑娘を、やや薄気味悪げに見て、そして村長は話し始めました。



「わしはこの銭家村の村長の銭と言う。この趙さんから聞いてると思うが、うちの村の裏にある江錬山に住み着いた山賊どもがこの村に目をつけてね。食い物を出せ、金を出せ、しまいには若い娘まで出せ、出さねば村を焼き払う、と無体の限りなんだよ。既に何人かの娘は差し出したが、奴らがこれで満足するとは思えない。」

「だから灰の姐さんに是非、奴らを退治…」


村長は男を一睨みすると、続けた。


「ま、あんたみたいなお嬢さんにそこまでは期待しないよ。奴らを少しでも足止めしてくれれば恩の字さ。何せ、お上に何度も盗賊鎮圧を申し上げているのに、なかなか来ては下さらないからねえ。」



灰姑娘は、ぶしつけな四つの瞳に囲まれても、表情一つ変えませんでした。

そして、承諾すると、村長の家を出て行きました。





「何と言うか、人形のような顔のつくりだが、また人形より愛想ない娘だね。妾にするなら願い下げだよ。」

「ですが村長、妾でなくて、用心棒ですから…」



ふん

村長は鼻を鳴らします。



「あんな細っこい娘っこが、ものの役に立つとは思えないが、まあ、溺れる者はなんとやら、さ。」

そうして煙管で煙草をふかすと、男も追従しました。



「そうですそうです、山賊どもに渡す娘は、まだ余所者で済んでますが、そのうち、村の良い家の娘まで攫われるかもしれませんからね。そうそう、いざとなったら、あの娘っ子を山賊どもに渡してしまえばいいんですよ。」

「はは、それで少しの足止めになればいいことだ。趙さん、だから早く、もっと役に立ちそうな用心棒を連れて来てくれ。」

「ですが村長さま、何度も言ったように、前金があんまりに少ない…」

村長がいらだたしげに煙管を叩くと、男は黙りました。


「努力します。」

「頼んだよ。事は急ぐんだからね。」














銭家村より、大人の足でも一刻はかかる、役場。



「お役人さま、いつになったら山賊を退治してくれるんですかっ!?」

小さな少年が、必死の形相で詰め寄っていました。



「とは言っても、中央からのお許しもないのでなあ…」

役人は、ゆるゆると煙草をふかします。




「だったら、お許しは後でいただけばいいじゃないですかっ!!このままじゃ、うちの村は山賊たちにいいようにされちゃうんですよっ!?」

少年は、必死で訴えますが、役人はただ煙草をふかし続けるだけです。


それでも縋りつく少年を、とうとう役人は雑用に命じて追い出させました。









「早くしないと、姉さんが山賊どもにもっと酷い目に…」

彼の足には過酷な道をとぼとぼと帰りながら、少年は泣きそうな顔で呟きます。


少年は、姉と二人暮らしだったのです。

流れ者だった両親は、あの銭家村に住み着きましたが、しばらくして相次いで亡くなり、少年は姉に養われて育ちました。

少年も姉も愛想の良い質で、下の町から物を仕入れては村で売るという商売で、なんとか口を糊していたのです。




ですが、あの山賊たちが現れてからは生活は一変しました。

元は余所者、村に他に親戚もいないということで、少年の姉は真っ先に山賊たちのいけにえにされてしまったのです。



姉が山賊たちにどんなに酷い目に会わされているか、考えると少年は居ても立ってもいられず、町の役場に何度も訴えに行くのですが、その度にあのようなあしらいを受けていました。










村に戻ると、彼の姿を認めた村の孫小母さんが、そっと耳打ちしてくれました。



「小鞠。村長さんが腕ききの用心棒を雇ってくだすったんだよ。ウチに泊ってるから、良ければ会いにおいで。」

「うん、ありがとう、小母さん。」



少年はその名のとおり、鞠のように駆けました。



腕利きの用心棒、一体どんな偉丈夫でしょう?

少年は期待に胸を膨らませ、孫小母さんの家への駆け込みました。



「ぼく、嵜小鞠と言います。腕利きの用心棒さん…」

叫んでから、少年はしまったと思いました。


どこで山賊がやってくるかわからないこの現状では、下手に用心棒を雇ったなどと聞かれない方がいいに決まっています。

少年は敏い質でしたので、用心深く注意すると、きょろきょろと室内を見回しました。




「…」

広くもない孫小母さんの家のこと、用心棒らしき人間がいればすぐに分かるはずです。


ですが、少年が目にしたのは、若い女性が饅頭を食べている姿でした。

しかも女性は、これだけ大騒ぎしている少年に目もくれません。


それほど腹が減っているのかとも思いますが、単に少年に注意をひかれていないだけかもしれません。



ともかく、こんな小さな村に知らない人間がいるからには、この若い女性が“腕利きの用心棒”なのでしょうか?

確かに剣こそ持っていますが…




「阿姨…」

少年は「お姉さん」と、丁寧に呼びかけてみました。


女性は、ちらりと視線を少年にやりましたが、そのまま何も言いません。



もしかして、自分はこの女性を怒らせたのだろうか。

少年がしばし立ちすくむと、女性は興味を失ったように視線を戻してしまいました。




「まあまあ小鞠、どうしたの?」

家に戻ってきた孫小母さんは、若い女性が食事をする前で立ちすくむ小鞠の姿を見て、そう問いかけました。



「孫小母さん、用心棒って…」

「ええ、こちらの方よ。灰さんって言うんだって。」

「…」


少年は、しばらく考えた末に、



「灰女侠、はじめまして。ぼく、嵜小鞠と言います。」

と、丁寧に再び挨拶しました。


「はじめまして。」

さすがに女性は挨拶を返してくれましたが、それだけです。

小鞠に興味すら示しません。



気まずい雰囲気を察し、孫小母さんがそっと小鞠を土間に呼びました。




「小鞠、あの人はああいう人なのよ。」

宥めるように孫小母さんが言いました。


「孫小母さん、あの人、本当に強いのかなあ?」

「さあねえ…」

心もとない返事に、小鞠は落胆しましたが、賢い彼は顔には出しませんでした。

そして意を決すると、再び女性の処へ戻りました。




「灰女侠、もうお聞きかもしれませんが、今、この村はひどい事になっているのです。山賊たちに襲われて、ぼくの姉も、たった一人きりのかぞくの姉が、山賊たちに差し出されて…」

小鞠は、自分の置かれた苦境を全て語りました。


全てに無関心に見えるこの女性も、この酷い状況を聞いたならば、きっと義侠心に駆られて、山賊たちの退治に全力を尽くしてくれる。

そう思ったからです。



事実、商売で鍛えた小鞠の話術は、小鞠の置かれた苦境を十分知っている孫小母さんすら涙ぐませるほどでした。





「…」

ですが、女性は聞いているのか、いないのかすら分かりません。

本当に人形のように、表情がぴくりとも動かないのです。


いえ、饅頭を食べる口は動いていますが。




「灰女侠!!」

ついにたまりかねて叫んだ小鞠の、お腹が


ぐう

と鳴りました。



無理もありません。

役場まで往復する間、何も食べていない上に、目の前で食事をされているのですから。




「…」

恨めしそうに小鞠は、苦笑すら浮かべない女性を見上げました。


小さな少年が身の苦境を訴えた上に、空腹で腹を鳴らしたというのに、女性は饅頭を勧めようとすらしませんでした。




「まあまあ、小鞠。」

孫小母さんは宥めるように割って入ると、小鞠を土間まで連れて行き、


「ごめんね、お腹がすいてただろうにねえ。」

と、食事を用意してくれました。



一心に胃に食べ物をつめこみ、ようやく一心地ついたところで、小鞠は唇を噛み、涙を流しました。




「…」

何かを罵りたい気持ちを必死で押し隠しながら、それでもこらえきれない涙をぼろぼろこぼす小鞠の頭を、孫小母さんはただ撫でてやる事しか出来ませんでした。
















「兵を出していただけるので!?」

銭村長は、歓喜の叫びを発しました。



「うむ、貴様らのような民草を安んずるのが、御上の広大な慈悲である。」

巨大な体躯に虎鬚を蓄えた、みるからに偉丈夫な武官が、頼もしげな返答を返します。


「主上の広大無辺な慈悲と、楊将軍の武威があれば、あんな山賊どもなど瞬時に蹴散らせましょう。」

銭村長の言葉に、“将軍”と呼ばれた偉丈夫は、気分良さ気に顎鬚をさすります。


彼は赴任したての一介の武官でしかありませんが、やはり「将軍」と呼ばれるのは気分が良いのです。



「いやあ田知事のお力があってのことじゃ。のう。」

話しかけられた肩の細い役人は、頷きました。




今まで何度も山賊退治の上申をしていたのに、今になって急に話が決まったのには訳があります。

このあたりの鎮撫に派遣されてきた楊武官が、とりあえずの成果を望んだからです。

山賊退治は、彼には手ごろな手柄に見えました。




「して、何か策はあるのか。」

田知事の言葉に、楊武官が口を挟みます。


「策などいらんわ。お上の兵で、山賊どもなど一揉みじゃっ!!」

楊武官の威勢の良い言葉を慇懃に聞き流し、田知事は銭村長に問います。


「楊殿のお言葉は尤もであるが、お上の兵をいたずらに損なう訳にも参らん。銭よ、そなたの村のことじゃ、何か考えもあるじゃろう。」


兵は県で雇っていますので、下手に死んだり負傷したりすると金がかかります。

ですから、知事は出来るだけ、事を大げさにはしたくないと思っているのです。




銭村長は、田知事と楊武官のそれぞれの思惑も分かった上で、そして口を開きました。




「拙村に、山賊どもがまた、財物と娘を要求してきました。それで、ですな…」




銭村長の言葉に、兵を出来るだけ傷つけたくない田知事も、手軽に手柄を挙げたい楊武官も、それぞれ大きく頷きました。

















小鞠少年は、あれ以来、女性と口を聞きませんでした。

彼は苦労もしているし、敏い質でしたが、なによりまだ子供でしたから、あの仕打ちに心からの怒りを覚えていたのです。



孫小母さんの家に厄介になっているあの用心棒の女性は、いつも剣を抱えてふらりといなくなっては、食事時になると戻り、食事をすると、一言も喋らずにまたどこかへ行く。

そんな生活をしていました。



「ホント、あの灰さんは、ホントは化け物かなにかの一味じゃないかね。」

善良な孫小母さんもついついそうこぼすほど、彼女には人間味というものが感じられませんでした。









「灰先生はいるかね。」

そうこうしているうちに、ある日、村長の家に仕えている趙大がやって来ました。


たまたま食事を終えたばかりで家にいた女性に、趙大は付いて来るように促します。


女性は、黙って頷き、立ち上がって趙大に続いて家を出ました。




「きっと、山賊退治が始まるんだよ。」

頭の回転の速い小鞠はそう悟ると、すぐさま女性の後を追いました。






小柄なのを生かして、小鞠は話を盗み聞きました。


ようやくお上の軍が出動するということ。

真正面から戦っては被害が大きすぎるので、女性には奇襲を手伝ってほしいということ。

それは、山賊たちが要求している娘たちの一人に彼女が紛れ込むこと。




それって、捨て駒にするってことじゃないか。


名前を出された娘たちも、昔からこの村に住んでいるのではない、姓が銭ではない娘たちばかりです。

小鞠は、最初に彼の姉が犠牲にされた事を思い、村長たちに怒りを感じましたが、どうしようもありません。




「何、すぐにこちらのお役人さま方が駆けつけますからね。」

妙に甘ったるい声で言う村長に、女性はやはり顔色も変えずに、ただ応と言っただけでした。


「では、出発は明日の夕方ということで。いやあ、男たちを駆り出さねばならんから、忙しくなりますねえ。」






孫小母さんの家に戻って来て、やはり何も言わない女性に、小鞠はそっと囁きました。




「阿姨、うちの村長さんはあんまり良い人ではないから、信じない方が良いですよ。」


ちらり

女性の瞳が、ようやく小鞠の方を向きましたが、それに睨みつけられているような気がして、小鞠はそれ以上語るのがためらわれました。





彼は、その圧力に耐えかねて、孫小母さんのところへ行き、覚悟したところを述べました。





「小母さん、ぼく、明日の村長さんの呼び出しに参加するよ。」





2008/3/18











嵜小鞠、凶賊共ノ山塞ニ登ル事

娘たちは皆、山賊達に囲まれて、洗い晒した白木綿より白くなっていると言うのに、灰姑娘一人は平然と立っていました。

嵜小鞠は、もうそれだけでは気が気で有りません。


山賊達は震え上がる娘たちに下品な言葉を浴びせては、更に震え上がるのを楽しんでいるのです。

下手に平然とした顔をしていては、目をつけられて酷い目に会うでしょうに。


「何だ、一人だけ色の白いあまっこがいるじゃねえか。」

山賊共の一人が、ついに灰姑娘に目を付けました。


「どこのあまっこだ?」

言われても、他の娘たちは灰姑娘の事を当然ながら知りません。

そして灰姑娘も、顎を抓みあげられて品定めされながらも、口を聞きません。


「町の娘です。」

娘たちを率いてきた趙大が、愛想笑いを浮かべながら代わって返答しました。


「こちらの親分さんには、あか抜けた娘がお好みかと思いまして、わざわざ、町から。」

「気がきくな、確かにお頭は色の白いあまっこがお気に入りだ。」

山賊はその返答に満足したらしく、灰姑娘から手を離します。


夜を楽しみにしてるんだな。

まだ幼い小鞠にも、その言葉が何を意味するかは分かりました。




粗末な小屋の一室に、娘たちは閉じ込められます。

身の不運を全身で嘆き悲しむ他の娘たちをよそに、灰姑娘は眉の一つも動かさずに座りこんだままです。


「灰女侠、本当に大丈夫なんですか?」

娘たちが大声を上げて泣く声を隠蔽として、小鞠は灰姑娘にそっと話しかけます。




銭村長の立てた「策」

娘たちを陽動に、付いてきた男たちが山塞に火を放ち、賊共が混乱したところを、楊武官率いる県の軍勢が一網打尽にする。

万に一つの遺漏もないと村長は断言しましたが、小鞠が聞いても、そうそう巧くいくとは思えません。

何より、これが策だと賊共に気付かれた時点で、娘たちは怒り狂った山賊共に皆殺しにされるのではないでしょうか?

この部屋の娘たちは、灰姑娘と小鞠を除いてこの策のことを聞かされていませんが、知ったとしても誰も安堵しないでしょうことは確かです。




「問題はない。」

「でも、あの剣を持っては行けないんですよ?」

「問題はない。」

「…そうですか。」

表情一つ動かさない灰姑娘の言葉を聞いては、頷かない訳にはいかない小鞠です。


灰姑娘の常に身に着けているあの剣、露草という何とも可愛らしい名前が付いているあの剣は、まさか身に着けている訳にも行かず、小鞠が他のものに隠して持っています。

でも、それを灰姑娘に渡すにはどうしろと言うのでしょう?


「小鞠!!」

「はいっ!!」

小屋の外から呼び立てられ、番の山賊に罵られ、小鞠は外へ飛び出します。


「ノロノロしてんじゃねえ、チビ。」

用事を押し付けられ、小鞠はよろよろと雑用にかかりました。




ですが目端のきく小鞠のこと、雑用をこなすふりをして辺りを見回し、とうとう目指す人物を見つけました。


「…!!」

互いに、すぐさま抱き合いたい衝動に駆られても、さすが姉弟、目くばせだけでその場は止めます。

「…」

姉の、そっと示される指先に軽く頷き、小鞠は頃合いを見計らってその場を抜け出しました。




「姉ちゃんっ!!」

小声で叫ぶ弟に、姉も黙って涙にくれます。

小鞠はそんな姉の顔に、薄いながらも青痣があるのを見てとりました。


「…何でもないのよ。」

姉は黙って頭をふりましたが、山賊共に殴られた痕なのは明らかでした。


再会をいつまでも喜びあいたい二人でしたが、互いに利口な姉弟は、まずは灰姑娘の剣を何とかして彼女に渡す手はずを整えるのが先だと考えます。


「厠の掃除は私の仕事だから、そこに隠すことは出来るわ。ただ、誰かが取りに来ないとならないけど。」

姉は、山賊共が連れてこられた新しい娘たちを引き入れて、宴会を開くと告げました。

ですから、灰姑娘もその場に連れてこられることでしょう。


「だったら僕が…」

「だめよ、見つかったらすぐに殺されてしまうわ。」

更に計画を詰めたかった二人ですが、山賊の一人が大声で姉を呼ぶので、小鞠は隠れざるを得なくなりました。


大きな平手打ちの音を聞き、小鞠は怒りでいっぱいになりましたが、この計画さえ上手くいけば姉も自由になれると、こっそりと小屋の灰姑娘の元へ戻ります。




「…」

剣は厠に隠せると告げると、灰姑娘は黙って頷きました。


「でも、そこから持ってくる手段は考え付かなくて…」

「問題ない。」

そう断言されると、返す言葉のない小鞠です。







夜になりました。

娘たちは引き出され、広間に集まった山賊共にそれぞれ宛がわれました。

小鞠の姉も、酌婦の一人として駆り出され、恐らく姉の顔に更なる痣をつけただろう男に、口汚く罵られています。

もちろん灰姑娘も、山賊の頭目らしき男に宛がわれ、酌を強いられています。


小鞠は、銭家村から来た男たちが、何か奇襲の合図でもしないかと幾度も幾度も目をやりますが、趙大はじめ、男たちは涼しい顔です。

灰姑娘を用心棒に雇い、また、今回の策の戦力の一つとしていることなど、忘れたかのようです。

小鞠は、なんとか隙を見つけて厠に剣を取りに行こうと隙を窺いたいのですが、子どもであることで追い使われ、少しもそんな余裕がありません。




山賊たちは酔い痴れ、少しずつ娘たちを連れて消えて行きます。

小鞠の姉も、山賊に引き連れられて、とある小屋に消えて行きました。

山賊の頭目も、灰姑娘に卑猥な言葉を投げつけ、腰を掴んで立ち上がろうとしました。

小鞠は、これから灰姑娘の身に起こるだろう事態を想像し、固く目をつぶりました。




「…」

目を開けた瞬間のことが、理解できませんでした。




ごろり

何かが無造作に転がりました。

それが何であるかしばらくは誰も理解できませんでした。




それが頭目の頭であると小鞠が理解した時には、奇声をあげ、武器を振り上げた山賊共が灰姑娘に打ちかかっていました。

小鞠は、次の刹那に灰姑娘の身に起こるだろう惨劇を想像し、恐怖のあまり固く目をつぶってしまいました。




「右か?」

「…」

その声に目を上げると、返り血の飛んだ灰姑娘が、小鞠を見下ろしていました。


「…はい。」

その返答と共に、小鞠には灰姑娘が消えたようにしか見えませんでした。

それは軽功と言い、常人には理解できない程の速度で移動する武功なのだと、もちろん小鞠は知る由もありません。


灰姑娘が去ってほんの少しして、小鞠は彼女が短い刃物を手にしていた事に気付きました。

そして振り向くと、頭を失った頭目の胴体を踏みにじりながら、山賊共が大騒ぎしていました。




それは大層な喧噪で、小鞠も事の次第を完全には理解できた訳ではありません。

ですが、小鞠は一番やらねばならない事を考え、灰姑娘が通るであろう通路に先回りしました。




「…」

灰姑娘は、小鞠の姿を見て少し驚いたようでした。

小鞠は、この人だか神だか鬼だか分からぬ娘が驚いた事に少なからずやの驚きを感じましたが、そのような場合ではありません。


「姉ちゃんを助けて下さいっ!!」

鬼ならいざ知らず、人か神ならば、山賊に攫われた哀れな娘を助ける手伝いくらいしてくれるでしょう。

その小鞠の目論見は、当たっていたようでした。


「こっちです!!」

小鞠は予め、姉の居場所の当たりをつけておきました。

手際良く松明をかかげ、姉と件の山賊のいる小屋の扉を開けます。


二人分に盛り上がった人影が、松明に照らされました。


「…誰だ?」

酔気が多分に交じった声が、小屋の戸に向けられた次の瞬間、


何とも聞きたくない音が一直線に闇の中に映りました。




その後は、何の物音もしないので、小鞠は松明を掲げて、怖々近づきます。


ぎやっ!!

という、酷い女の声がしました。

姉の声でした。



「姉ちゃんっ!!」

慌てて駆け寄った小鞠が見たものは、男の体の下からはい出した、ほとんど全裸の姉の姿でした。

そして、姉の顔には、血が流れています。


「ね、姉ちゃんをっ!!」

刺したのか?小鞠は続けかけたのですが、


「男だけだ。」

灰姑娘の冷静な声が返って来たので、小鞠も冷静になって松明を掲げます。


頭の後ろから地面まで、剣の一刺しで突きとおされています。



「こ、この人っ…途中で…頭だけ…」

「これで、助けた。」

灰姑娘は姉に背を向けると、戸口に向かって歩きます。




推察するに、姉と…そういう事の最中であった山賊の頭を剣で刺し貫いて殺したようです。

あの暗闇の中で。

しかも重なり合っていた姉には触れずに、山賊の頭だけを。




「姉ちゃん、逃げなきゃっ!!」

狼狽する姉の裸体を見ないようにしながら、小鞠は衣を投げかけてやりました。





灰姑娘は、鬼でなければ人か神か。

とりあえず小鞠は、神ではないかと考えました。





2010/5/5











嵜小鞠ガ姉、恩義ニ報イル事

嵜小鞠は、賊どもの山塞に火が回るのを見ました。

楊武官率いる県の軍勢が、ようやくやって来たようです。

「姉ちゃん、これで助かるよ。」

小鞠が姉に話しかけると、姉も強張った笑みを浮かべます。

いくら無理に宛がわれていた山賊風情とはいえ、交わっていた男をその最中に頭を貫かれて殺された衝撃からまだ立ち直れてはいないのです。


「灰女侠、あなたは本当に素晴らしい侠客ですね。」

小鞠は心からの賛辞を述べたのですが、灰姑娘は振り向きすらしませんでした。




山道を下ると、再び喧騒があります。

一度は消えた血の臭いが再び小鞠の鼻を突きました。


「何の臭いかしら。」

姉が強張った声で小鞠に問います。

小鞠は答えません。

答えずとも、それが人の血の臭いであることは、姉にも分かっていると知っていたからです。


道が開けました。

松明が、季節外れの赤い蛍のように灯る中、講談の中の豪傑のような楊武官が仁王立ちしています。


「誰だ?」

容貌に似つかわしい、割れ鐘のような楊武官の声に姉は震え上がりました。

小鞠はその姉の手を強く握り、唇を噛みしめて、我とわが身を勇気づけます。


「無名。」

「無名だとっ!?」

恫喝するような声でしたが、小鞠の見る灰姑娘の肩は震えの一つも見せません。


「無名だとっ!?」

楊武官の声に苛立ちが混じりました。


「無名などという名があるものかっ!吾輩を愚弄しているのかっ!!」

今度こそ、本当に威圧を目指したらしく、小鞠も姉も震え上がるような声でしたが、やはり灰姑娘の肩は一つも動きなどはしませんでした。


「いえいえいえいえ、楊将軍。」

軽薄な声が割って入りました。

趙大の声です。


「この娘は本当にその名なのですよ。ええ、本当に変わった名ですが、まあ、余所者ですので。」

趙大は元よりよく動く舌をいつもよりよく動かして、聞き苦しいほどみえみえの世辞を楊武官に並べたてました。


「まあ、余所の町から雇った娘ですよ。今回の作戦の囮にするつもりでね。」

それは違う。

灰姑娘は用心棒で有る筈なのに。

小鞠は苛立ちますが、利口な彼は口には出しません。

ただ、灰姑娘が苛立つのではないかとその後ろ姿に目をやりますが、やはり灰姑娘の肩は動きすらしません。


「む。」

楊武官は満更でもない唸り声を喉の奥から出します。


「まあ、囮など用いずとも、吾輩の武勇があれば賊どもなどほれ、このように一呑みよ。」

「そうそう、そうでございます。賊どもの頭目も楊『将軍』が討ち果たされ…」

「かかか、吾輩の手にかかれば、賊など一刀両断よ。貴様にも見せてやりたかったぞ、あの大刀捌きを。」


なんと図々しい武勲でしょう。

賊を討ち果たしたのは灰姑娘です。




「灰女侠?」

さすがに小鞠も聞きかねて、そっと灰姑娘の袖を引きました。

灰姑娘は振り返りましたが、その目は小鞠を向いてはいませんでした。




「村長。」

灰姑娘の唇から、短い言葉が漏れました。


血の臭いから鼻を守るように袖で顔を押さえていた銭村長が、鬼でも見たかのような顔をします。

やはり見殺しにするつもりだったのだと、小鞠は直感しました。


「賊の頭目は討った。礼金を貰おうか。」

「何っ!?」

楊武官が牛のような目を剥いて灰姑娘を睨みつけますが、灰姑娘は顔の筋肉一つ動かしません。


「小娘っ!!賊の頭目を討ったのは吾輩であるぞっ!!」

轟くような大声に、銭村長たちも怯みますが、灰姑娘は視線すら逸らしません。


「賊の頭目は殺した。礼金を払え。」

楊武官の存在など黙殺したような物言いに、楊武官の目が血走り、得物が抜かれました。




「ま、待って下さいっ!!」

小鞠は、姉の叫びを聞きました。


「小鞠!!」

姉が灰姑娘と楊武官の間に立ちはだかり、小鞠は姉に促される通り、灰姑娘の袖を強く引いて下がらせます。

灰姑娘は、大人しく後ろに下がりました。



「わ、私知っています。この人が山賊の頭目を殺したんです。そして、私を助け出してくれたんです。」

「姉ちゃん…」

小鞠は、姉の覚悟を悟りました。

こんな真似をしては、もう村にはいられないでしょう。

村長と、そして県の武官に逆らったのですから。

ですがそれでも姉は、命の恩人を庇う方を選んだのです。




銭村長が小さく舌打ちし、冷たい目で姉を睨みつけました。




「娘、賊どもに捕らえられていたと申したな。」

轟くようだった楊武官の声が、低く、くぐもりました。


「は…はい…」

姉は、捕らえられていた日々の記憶を抉りだされたような声で、それでも返答しました。




まさか

という思いから、小鞠はしばらくは声も出せませんでした。


何か黒く邪悪なものが、小鞠の目に見せた幻影ではないかと、小鞠は思いました。

そして、そうであれば良かったのです。




そうではないと、利口な彼はすぐに悟ってしまいました。




「…賊共に慰まれていた娘など、恥ずかしくてどうせ生きてなどおられまい。」

怒りの籠った震える声で、わざと平静に見せかけた言葉を、楊武官が発します。


「ええ、ええ…」

銭村長は、目の前に斬り伏せられた娘と、地面に広がる闇でドス黒くしか見えない血に視線を落したまま、呆然とただ相槌を打ちます。


「村長…っ。」

趙大の声に、村長はようやく我に返ったようでした。


「ええ、ええ、そうですとも楊将軍。傷物にされた余所者の娘など、どうせうちの村に居場所などありませんからね。そうそう、おまけに酷い嘘吐きだ。一思いに楽にして下さって、むしろお慈悲と言うものですよ。」

動揺を押し隠すように滔々と捲し立てる銭村長の言葉など聞きもせず、楊武官は血走った目で灰姑娘を上から睨みつけました。


声も出せない小鞠を後目に、猫のように音を立てず、灰姑娘は歩み寄ります。

「小娘…」

上から、威圧で押しつぶさんばかりの楊武官の前を悠々と通り過ぎ、小鞠の姉の流す血を避け、灰姑娘は銭村長の前に立ちます。




「賊の頭目を殺したのは私だ。礼金を払え。」

その声には感情の高ぶりすら無く、その肩は震えの一つも見せてはいませんでした。





2010/6/13











嵜小鞠、灰姑娘ヲ理解スル事

どうすればいいのだろう。

小鞠は、姉が惨殺されたその衝撃に打ちひしがれるより、灰姑娘の行方を案じました。

このままでは灰姑娘も姉のように斬り殺されてしまうと思うと、何とか彼女を止めたいとも思います。

ですが、何を言っても、この水晶のように透明で、そして冷やかな女性に通じそうにも見えないのです。



銭村長は途方に暮れた顔で趙大に目をやります。

さすがの趙大も、どうして良いのか分からずに、村長にそのまま目を返します。




楊武官の肩が大袈裟に揺れました。

「この小娘がっ!!」

小鞠が、地を揺るがす様に感じた咆哮の後、楊武官は一同が予測した通りの反応を示しました。

その大きな得物を振り上げたのです。

その得物が一振りされれば、灰姑娘などちぎれ飛んでしまって終わりだろうと、銭村長と趙大は思いました。

ですが小鞠は、それとは逆の予測をしました。




当ったのは、小鞠の予測でした。




引き千切られた声が、血なまぐさい中に響きます。

地面に巨体が倒れ込む音が銭村長の耳に届き、巨体を軽々と踏みつけにするしなやかな足が趙大の目に入りました。

そして、小鞠の足元には得物を手放した形を保った指のついた腕が、転がりました。




串焼きでも作るかのように、易々と首筋に剣を通し、断末魔の顫動が止まるまで灰姑娘は楊武官の巨体を踏みつけたまま、仁王のように小揺るぎもしませんでした。




金を。

幾度目かのその言葉を発そうと、灰姑娘が唇を開きかけただけで、銭村長は慌てて懐をまさぐりました。

あまりに慌てて出そうとしたので、金を入れた小袋が地面に転がります。

灰姑娘は、楊武官の死体を踏みつけていた足でそれを跳ね上げると、軽く手のひらの上で弾ませてから、中身も確かめずに一同に背を向けました。




小鞠が、どうしてその背を追う気になったのかは、分かりません。

姉の無残な死体を葬る事の方を何故考えなかったのか、分かりません。

ともかく、さして急ぐ風でもないのに、小鞠が全力で走ってもなかなか追いつけない速さで山を下っていた灰姑娘が、唐突に停止しました。


「何か用か?」

表情が薄いながら、そこには不審が浮かんでいました。




どこへ行くのか?

小鞠の問いには


「靴を取り返しに行く。」

説明を要しながら、その説明を付け加える気はない回答だけが返ります。

小鞠は息を整えながら、自分でも何故かは分からないのですが、




「なら、連れて行って下さい。」

そう、叫んでいました。




灰姑娘は、応とも否とも言いませんでした。

ただ、無感情な瞳で小鞠を見詰めるばかりです。




「いいですか、灰女侠。お役人さまを殺してしまったなら、タダでは済みませんよ?はやくこの県境から抜けないと、捕まります。峠までの道を教えますから、そこで待っているんですよ、すぐ追いつきますからいいですねっ!?」

姉を役人に殺され、そしてその役人をいとも容易く殺した、人とも魔ともつかぬ存在を前にしているのに、小鞠はひどく冷静でした。

どうしてなのか、本当に自分でも分かりませんが。




山道を転がり落ちるように銭家村に戻った時には、もう空は白みかけていました。

小鞠は人目に付かないように家に戻ると、手早く荷造りをしました。

小間物を仕入れるために町まで出て行く事も多かったので、荷づくりには慣れているのです。



外では、小さなざわめきが拡がって行きました。

銭村長は、あの楊武官の死をどうするつもりなのでしょう。

雇った娘に斬り殺されたなどと言ったならば、銭村長も一味扱いされるでしょうから、そんなことは言わないでしょう。

恐らく、賊との戦いで頭目を討ちとったものの、楊武官も。

そういう筋書きになるのでしょう。

ならば、灰姑娘に追手がかかる心配は少ないかもしれません。


荷造りを終え、小鞠はもう一度、住み慣れた我が家を振り返りました。

苦しかった生活。

姉との生活。

小鞠は、姉の死体はどうなるのかと考えました。

残って姉を供養し、この村で暮らしていくべきではないかと思いました。


小鞠は家から数歩の位置に咲く花を摘み取り、粗末な卓の上に置きました。

そして唇を強く噛んで、二度と振り返らずに家を出ました。




誰も旅支度の小鞠を呼び止めするしませんでした。

楊武官や、姉や、灰姑娘や。

それらの顛末を、村人たちがどのくらい知っているのか、分かりません。

ですが、村人たちの余所者である小鞠への関心はその程度なのだと、小鞠は改めて思い知りました。




小鞠が峠へ駆けると、予想外にも、灰姑娘はそこにいました。

いて、饅頭を頬張っていました。

小鞠は、自分で待たせておきながら、灰姑娘は待つ筈がないと心のどこかで思っていたのです。

待っていなかったら自分はどうする気であったのか、それもよく分かりませんが。




「待っててくれたんですね。」

笑っていいのか、そんな顔で小鞠は言います。


「待てと言ったろう?」

灰姑娘は怪訝そうな顔で返しました。

小鞠は、彼女でもそんな顔が出来るという事に、新鮮な喜びすら覚えました。

彼は、つまる所この女のせいで姉は死んだのだと知ってはいましたが、何故か憎む気にはなれませんでした。



「本当に待っててくれたんですね、本当に良かった。安心したら…おなかがすきました。」

小鞠は、灰姑娘の頬張る饅頭を指さしました。


「一つ下さい。」

灰姑娘は、無造作に一つの饅頭をよこしました。

小鞠はたちまち腹におさめて、

「もう一つ下さい。」

と言いました。

また無造作に一つの饅頭が差し出されました。

そしてそれを幾度か繰り返し、最後の一つを指さして、小鞠は、


「一つ下さい。」

と言いました。

灰姑娘は、無造作にそれをよこしました。




灰姑娘とて腹を減らしていたでしょう。

あの短い夜に、三人も人を殺したのですから。




「ようやく分かりました。」

最後の一つを押し込むように腹に収めてから、小鞠は言いました。

灰姑娘は、小鞠の言葉を待つように、その顔を眺めました。




「あなたはそういう人なんですね、灰姑娘。」

そう言ってしまうと、小鞠は急に涙が込み上げてくるのを感じました。

その感情は止められず、小鞠は泣きました。

酷く泣きました。


灰姑娘は驚かず、慰めず、でも立ち去らず。

小鞠が涙を自ら拭うまで、そこで待っていました。





2010/6/27